デュシャンと連想

朝日新聞の夕刊で篠原資明氏がデュシャンのいわゆる「泉」は翻訳間違いだと指摘していた。
「噴水」であるべきで、泉と噴水のイメージの違いゆえ、デュシャンが意識的だったと思われる大ガラスと噴水との関連性に日本語使用者は気付かないのだそうだ。研究者たるもの言葉には常に敏感であるべき。さすが篠原先生、鋭敏な感覚を超絶短詩でさらに研ぎ澄ませていなさるのかもしれない。「あんな、華麗にな。」は名作だった。あれは投稿句だったか?
 デュシャンフィラデルフィア美術館に展示された大ガラスとその向こうに見える噴水との関係を考えてグリーンボックスで大ガラスの隣に便器をおいたのだろうか、それとも大ガラスの展示のそばに便器をおけなかったため噴水の見える場所に大ガラスを配置したのだろうか?・・どうでもいい気がしてくる。
デュシャン展の会場では、大ガラス(東大バージョン)のそばに日本人作家による「大ガラス」というタイトルのでかいカラスの作り物があった。異文化の彼方で行われたデュシャンには思いもよらない連想が作品化しているのを見て冥土のデュシャンはほくそえんでいるのではなかろうか。
 しかし日常この調子で思考して人と会話してはいけない。そのうち「あなたの観念連合にはついていけません」と厳重注意を受けることでしょう。私は以前受けた。