ピチェ・クランチェンと私 ジェローム・ベル 横浜トリエンナーレ関連企画 赤レンガ倉庫1号館 100分

11月2日、3日

ジェローム・ベルJerome Belは振付家として知られるが、ヴィデオで見たTシャツを脱ぎ続ける作品を見た限りでは、いわゆる踊らないダンスをつくる振付家と思われる。ダンスを見たい場合に私があまり感心しないタイプの作品です。かたやピチェ・クランチェンPichet Klunchunは、今やタイを代表しつつある古典舞踊家
「ピチェ・クランチェンと私」を見に行ったのは、少なくともタイの古典舞踊の最も優れたダンサーの一人の身体を見るため、もう一つの理由としては、単にジェローム・ベルの作品を見たことがなかったからであった。
結論からいえば、面白かった。
これは断じて「ダンス作品」ではない。ところどころで、それぞれが実演という形をとってそれぞれの踊りを披露するが、基本的には2人の対話を中心に進められるものだ。だが、では実演入りトーク、とかいう風に銘打たず、横浜トリエンナーレのプログラムに「作品」として参加していることが詐欺かといえば、そうではなく、やはりこれは「作品」だ。加えていえば、舞台形式をとること以外の方法では提示できないことを提示している点で、舞台作品といって語弊はない。

ここでなにがダンスで、なにがそうでないか、をはっきりさせておくべきだろうが、話題が大きいので、仮に日常の動作から逸脱する動きをある程度体系化し、構成したもの、と、しておく。
この場合、ピチェの動きをダンスと認めない向きはないだろう。かたや、ジェローム・ベルのものについては、既成の枠組を払うことに集中し、もはやそれ自体はダンス作品としての質や存在価値が維持出来ているのかもあやしいものをダンスと認めるのか、などの非難が予想されるようなへなへなな身体である。現代芸術の定型に則った典型的な「メタ」芸術の可否にも話が及び得るかもしれない。だが、「ピチェ・クランチェンと私」は、そうした異なる位相にあるダンスを、果敢にも「対等に」俎上に乗せて見せようとしており、その点に私は最も打たれた。
西洋圏で成立したいわゆる「コンテンポラリーダンス」の中でも、ある意味最も批判に晒されるジェローム・ベルのような振付家が、高度に完成されたタイの古典舞踊を、自分の作品に利用するとは(ずうずうしい)、という風には、私には受け取れなかった。それは、作品の冒頭部分で、タイにおける古典舞踊の政治的な位置付け(王権との密接なつながりから、衰退、観光産業の一部としての復活)と現状が明らかにされ、「異文化」の「古典」に対する「文化財保護」的視点が牽制されたことが大きい。さらに、ピチェ・クランチェンが野心的なコンテンポラリー・コレオグラファーであり、古典を脱構築して自分の作品作りをしているらしい、という予備情報を得ていたからでもある(実際の作品は未見)。ピチェ・クランチェン自身が、この作品でジェローム・ベルとコラボレーションすることで得られるメリットも推測されるのだ。
こうして、完璧なピチェの踊りの後に、ジェロームの踊りが披露されても、両者を幻想なしに、対等に見ることが出来たのだ。
ここまでが前提だ。これくらい前提を述べておかないと、なにが面白かったのか、分かってもらえないような気がするのである。