アンリ・カルティエ=ブレッソン 知られざる全貌 "De qui s'agit-il?" Retrospective de Henri Cartier-Bresson 東京国立近代美術館 企画展ギャラリー

2007.6.19-8.12


近美で所用。展覧会も見る。常設展の特集展示では、ただ今岸田劉生の麗子関係資料が出ている。去年もこの頃出ていたかも。なお今回の常設では《騎龍観音》に異様に打たれた。よく見ると龍が怖く、かつ観音が女性的ではないことに初めて気がついた。かつ背景のイメージソースに思いを馳せ、原田の技量に敬服。
ブレッソン
確かに全貌は知らなかった。HCB自身が被写体になったごくプライベートな写真群に興味をそそられた。他人が撮った写真家の肖像。CBも何人かの写真家や映画監督を被写体に撮っているが、画家や作家を対象にしたものと違い、何となく共犯者的な雰囲気を感じたことでした。後年はドローイング、水彩などを行っていたということが意外であった。
スナップショットの力を再認識。暇が出来たらまたゆっくり見たい。関連映像もゆっくり見ていられなかった。
撮られた時代に浸れる楽しさがある。阿蘇山の噴煙の中を歩いてくる老人の写真が気に入った。見ていると現場の怖さが蘇る。

「決定的瞬間」をとらえた写真家として知られるフランスの写真家アンリ・カルティエ=ブレッソン(1908-2004)。
彼は絵画を学んだ後、1930年代初頭に、本格的に写真にとりくみはじめます。35mmカメラによるスナップショットの先駆者として、独特の鋭い感性と卓越した技術を結晶させたその写真表現は、ごく早い時期から、高い完成度を示していました。

1952年に初の写真集『逃げ去るイメージ(Images a la sauvette)』(*)を出版。そのアメリカ版の表題である『決定的瞬間(The Decisive Moment)』は、カルティエ=ブレッソンの写真の代名詞として知られるようになります。
日常のなかの一瞬の光景を、忘れがたいイメージへと結晶させる作品は、同時代の写真表現に大きな影響を与えました。
日本でも1950年代にその仕事が紹介されると大きな反響を呼び、その作品は広く愛されてきました。
本展は、ヨーロッパ以外では初めての巡回であり、日本国内では東京国立近代美術館のみの開催です。本展は、パリのアンリ・カルティエ=ブレッソン財団とマグナム・フォトの協力によって制作されました。
この展覧会がベルリンに巡回していた2004年8月にカルティエ=ブレッソンは95年の生涯を閉じました。最晩年、自ら企画・構成に関わったこの展覧会は、写真家集団マグナム・フォトの創設メンバーのひとりとして、20世紀を見つめた写真家が、21世紀に遺したメッセージとなりました。
「ヨーロッパ」「アメリカ」「インド」「中国」「ソヴィエト」など、取材した国や地域ごとの章に加えて、「ポートレイト」「風景」といったジャンルによる章、またそうした枠組みをとりはらってよく知られた代表作だけを集めた「クラシック」の章など、この展覧会は、多角的な視点からアンリ・カルティエ=ブレッソンの仕事の全貌をたどります。  

そこで浮かび上がってくるのは、眼の前の世界が完璧な調和をみせる一瞬を捕獲する妥協なき芸術家としてのまなざしや、ガンジー暗殺や中国共産党政権の成立など、適確な時と場所にいあわせて
歴史の分岐点を目撃するというジャーナリストとしてのすぐれた資質です。
   
多角的な視点から、カルティエ=ブレッソンの多面性が見えてくることでしょう。

なお本展ではアンリ・カルティエ=ブレッソンによるフィルムなど、映像作品も展示されています。すべてを見ると、1時間以上かかります。ぜひ、お時間に余裕を持ってご来館ください。

カルティエ=ブレッソンについてのフィルム(約10分)
セルジュ・トゥビアーナ編
1. ジョン・ミリ「友情」 2分44秒
2.ロベール・デルピール「コンタクツ:アンリ・カルティエ=ブレッソン」 1997年 7分〔オリジナル15分からの抜粋〕

カルティエ=ブレッソンによるフィルム(約15分)
セルジュ・トゥビアーナ編
3.アンリ・カルティエ=ブレッソン「生命の勝利」 1937年 5分30秒〔オリジナル49分からの抜粋〕
4. アンリ・カルティエ=ブレッソン「スペインは生きる」 1938年 6分5秒〔オリジナル43分32秒からの抜粋〕
5. アンリ・カルティエ=ブレッソン「帰還」 1944/45年 3分10秒〔オリジナル32分37秒からの抜粋〕

カルティエ=ブレッソンへのオマージュ(約1時間)
6.サラ・ムーン「アンリ・カルティエ=ブレッソン ― 疑問符」 1994年 37分
7.ロベール・デルピール「現行犯」 1967年 22分 

1908年フランス、セーヌ=エ=マルヌ県シャントルーに生まれる。画家を志しパリでアンドレ・ロートに学んだ後、31年から翌年にかけアフリカ象牙海岸に滞在中に写真を撮り始め、小型カメラ「ライカ」で撮影したスナップショットが注目される。30年代後半には映画監督ジャン・ルノワールの助手を務めるなど映画制作に従事。第二次大戦中は従軍し、ドイツ軍の捕虜となるも脱走、レジスタンス活動に加わり、大戦末期にはパリ解放などを撮影した。戦後47年にロバート・キャパらと写真家集団マグナム・フォトを結成、以後インドや中国、アメリカ、旧ソヴィエト(当時)、そして日本など、世界各地を取材した。52年に初の写真集を出版、そのアメリカ版の表題『決定的瞬間(The Decisive Moment)』は、カルティエ=ブレッソンの写真の代名詞として知られることになる。スナップショットによって、日常のなかの一瞬の光景を、忘れがたい映像へと結晶させる作品は、同時代の写真表現に大きな影響を与えた。70年代以降はドローイング制作に専念、2004年フランス南部の自邸で死去した。