「日本美術が笑う:縄文から20世紀初頭まで」展, 「笑い展:現代アートにみる“おかしみ”の事情」展  森美術館

2007年01月27日 〜 05月06日

この2つの展覧会は別のものと思っていたが入り口と出口はひとつ、「日本美術が笑う」の続きに「笑い」展が繋がっていた。チケットが一つだった訳である。しかし、企画者、図録は別々であった。どういう事情だか分からないが、全く違う2つの展覧会を強制的に抱き合わせて見せられた、という印象。

日本の古美術の中には意外にも多くの「笑い」があります。本展は土偶や埴輪などの考古遺物から絵画、木彫まで検証し、日本美術の笑いをユニークな視点で探るものです。会場は5つのセクションで構成し、冒頭にはニッコリ微笑んだ紀元前数千年の土偶が展示されます。しかし、この土偶が笑っているのかどうかを確かめる術はありません。古墳時代には、明らかにゲラゲラ笑っている埴輪が現れ、笑いの力で邪気を飛ばすことを造形化していたことがわかります。

意図されて描かれたもの、そしてまた偶然見る側がそう思ってしまうものなど、日本美術には古来より様々な笑い、ユーモア、おかしみの要素が含まれています。本展では縄文から20世紀初頭までの未紹介作品を多く含む約100点で展覧します。建築家・千葉学氏による展示ケースデザイン、そして会場構成で、森美術館の空間は日本美術の新たな魅力を伝える「笑い」に包まれます。

確かに埴輪は笑顔だった。河鍋暁斎の放屁合戦は見ていて笑えた。草紙ものや、妙にへたな(しかしのびのびとして素晴らしい)洛中洛外図屏風は絵画表現の技法に微笑ましいものがあった。
しかし、肅白の《柳下鬼女図》はどこに笑いの要素が?同じく芸大から出ていた《群仙図屏風》の展示替え要員としてついでに借りたようにしか思えなかったが。一連の動物画も、どこに笑いやユーモア、おかしみの要素があったのか。動物=微笑ましいということ?
非常にこじつけ的印象を免れなかったが、しかし英一蝶の《舞楽図屏風》とか、普段見られない作品をいくつか見る事が出来てまあ、テーマにこだわらずに見ればいいと割り切った展覧会。ガラスケースとか、仕切り壁とか、会場施工に恐ろしく金が掛かっていた。しかし効果はあったと思う。

これに対し、「笑い」展の方は頂けなかった。
現代美術の場合、テーマで括ればどうしてもテーマにこだわった見方を、見る側もするだろうと思う、しかし。
皮肉が強いばかりで、別におかしい訳でもセンスが良い訳でもなく、中には反感すら覚えるものも。隠蔽された何かをダイレクトに出されると不快を覚えるので、そこに笑いの要素を入れて、リラックスさせ、ものを考えさせる、という行為に失敗している作品が多かった。メッセージ性以前の話として、おかしみの質が貧しいというか。むしろ、笑いで括らなければ「おかしみ」の要素を感じ取ることも出来たかもしれないです。さらに、トム・フリードマンとか、フィシュリ&ヴァイスとか、ヤン・ファーブルイリヤ・カバコフの変なコラボ作品とか、このテーマならと期待した作品、作家が出ていないのにはがっかりだった。せっかく50名分も出品できたのなら、入れて欲しかったなあ。現代アートの中での歴史的部分がほぼフルクサスハイレッドセンターだけというのもさびしいものがあった。
要するにこれは私のおかしみのセンスと全く合わなかったということか。げんなりして会場を出たことだった。
今村裕という作家の「舞語」は面白かった。