生原稿流出

生原稿流出の話題が新聞にのっていた。

近代以降の文学の場合、活字化され流通するものをもって世に「作品」ありと認知されるのが普通だろうが、その隙間をぬってフェティッシュな価値が付与される「物」に目をつける人がやはり現代にもいた訳だ。
この話しが面白いなーと思うのは、オリジナル神話によって形成される市場の存在を思い出させるからだ。作家が(まさか売られようとは本人も思っていなかったにせよ)、文学作品の内容のみならず、原稿という「物体」にも著作権を主張し(その後よく新聞をみたら著作権でなく「所有権」を主張しているのであった。そうすると、著作物に優先して財産と見なしているということ?この切り分けについてもっとよく知りたいものだ)、過剰反応するのも興味深かった。もっと泰然としているものだと思っていた。生産過程での合理化、という当然の帰結として手書き、実物、唯一などが減りつつあるのが近代以降の文学の流れではないかと思うが、別の論理体系に従って、表裏一体にこの市場のほうも強化されつつあるのか?
そういう自分も先日聖徳太子直筆の仏教解釈書を見て(読んで、でないところがまた、)感動したのだった。オリジナル話は面白い。
資料的価値、ということから言えば、作者が手をつけているものには最大の情報が盛り込まれているので、やはり複製芸術であっても最初の1つは違う、と思う。たとえ最初から100あったとしても。クラウスが昔論じたロダンとオリジナルの話しもすごく刺激的だったが、着眼点が理論家ならではのもので、コンサバターとかレジストラーの仕事をやっている人たちには既に常識だったのだったりして。