高橋由一2 風景画

なんで由一の隅田川不忍池などの風景画群と栃木、福島、山形新道の写生画は全く雰囲気が違うのか。前者は風景画、後者は土木県令三島通庸の委嘱で描かれた東北新道の記録画であり、多くはスケッチ、石版画だったから当然といえば当然だが、もう少し細かく言葉にしておいた方が良さそうだ。
明治14年と17年の2度に渡り、高橋由一は県下に開通した新道の情景記録、というか図誌を委嘱される。この時、由一は写真家を同伴し風景を記録、東京に送って下図を描かせていることが息子に書き送った手紙に記されている。由一が油絵の功利的側面、諸史実の記録であるとか古物のイメージ記録を説いているその時既に写真が記録媒体として実用化しつつあったことは強調してもしすぎることはないと思う。ちなみにもっと後の時代、水彩画家三宅克己の明治20年代の回想記中に、仲間連中が写真を趣味にして風景をとったりしたが、露光、現像などなにぶん不安定で大変で、自分は大して興味がない的なことが書かれているが、由一は東北の写真師と接触し撮影を頼んだらしいから、出来はプロ的なものだっただろう。
プロといえば、県令三島通庸は、明治14年東北の新道に明治天皇の巡幸を迎える際、山形初の写真館を開いた県令の御用写真師、菊池新学に県下を撮影させアルバムを献上している。同じその口で由一にも油絵を描かせているのだから、受容側三島通庸は写真と油絵の違いについてある認識があったに違いない。絵だとカラーだとか。さらには絵画の写実が持つなにかへの期待。この「絵画特有のなにか」が高橋由一にはどう意識されていたかというのが気になるところだ。
原田光氏が「無署名であることについて」でいみじくも「写生家由一の“粉本主義”」と書いておられる。由一は昔に、

眼下ノ森羅万象既ハ皆造化主ノ図画ナル所以ニ 写照スル所ノ像ハ 則人功中 筆端ノ小造物ナリ

プラトンみたいな事を書いているが(由一が手本にした司馬江漢の著作がそうだったからだろうが)、「真を写す」ところの写真というものがあれば、それを粉本として「真」に迫る、というのは、由一が若き日に学んだ狩野派的発想からするとまことに自然だったかもしれない。また、明治の新風景であった新道、つまりトンネルや長い陸橋を見て風景として構図を取るとき、写真のフレーミングはかなり助かっただろう。撮るべき位置は由一が決定したとしても。
かたや隅田川江ノ島など、江戸からなじみの風景群を描いた由一の風景画は「名所絵的な作画意識が濃厚」と指摘されたりするが、それはそうかもしれないが、やはり真景描写であることにかわりはない。むろん、構図内の取捨選択、前景に柳の枝を垂らしてみたり、遠くに船を加えてみたり、ということはある。しかしそれは新道の記録画にもあることで(手紙で、「余計な枝は透かして描け」みたいな指示があったように記憶する)、そもそもフォンタネージからして構図における美的対象の取捨選択の指導はしていた訳だから、フォンタネージとの接触による、いわゆる後期風景画とそれ以前、という比較のポイントもあるが、適宜参考にするものの、とりあえずそこには重点を置かないで考えることにする。
それより触れておきたいのが、例えば由一の夕方好き。遠くの空が夕焼け、つまりは茶色っぽい風景が圧倒的に多い。雪曇り(黒っぽい)、あるいは青空もあるが不自然感が大きい。フォンタネージと出会う以前の作も夕方風景は割と写真なのだ。午後遅くを選択的に選んでいたのか?つまりピクチュアレスク。とすると、やはりフォンタネージ以前、豆腐だとか鮭、米櫃についた米粒など、「なんでもないもの」を描くことで西洋画というもののリアリティーを喧伝したその対象選択とは基準が違うことになる。
今日はここまで。